
ごめんなさい
自分の記事を読み直して
あれ書きたいこと書き忘れてる
と気づいたので、書いています
どうも見出しをこれ以上増やせないみたいなので
別記事になりました
すみません・・・
子供の頃の価値観
ひとつは、漫画のほうで描こうとしていた彼女についてです。
前にも少し触れましたが、彼女は、男の子から見れば、物静かで知的で、自立した同世代のように見えていました。
けれど実際には、情報を遮断しながら苦しんでいるだけ、という側面がありました。
知的に見えるのも、知っていることにだけ反応できていたから、という感覚が自分の中にはありました。
そこには、自分自身の感覚もかなり混ざっています。
自分にとって子ども時代は、今よりずっと視野が狭くて、ひとつひとつの出来事がやけに重大でした。
何かひとつ詰まっただけで、この世の終わりみたいに感じてしまう。
その感覚を、漫画では彼女を通して表現したかったのだと思います。
だから彼女は、ただ大人びている女の子ではありませんでした。
むしろ、自分の手に負えないものをなるべく見ないようにして、苦しさをやりすごしている存在でした。
漫画では、その危うさまで含めて描きたかったです。
なんで水族館なのか
前の記事では、水族館を人との距離や関わり方に見立てていた話が抜けていました。
この話の中で水族館は、ただ雰囲気のいい場所とか、魚が好きだから行く場所、というだけではありませんでした。
彼女にとっては、ガラス越しに相手を見ること、自分も見られること、その距離感そのものが大事でした。
彼女は、人との関わりをどこか「水槽越し」に捉えていたのだと思います。
近づきすぎると苦しい。
でも遠すぎても何もわからない。
見ているだけでいたいのに、相手からも見返される。
水族館の展示には、そういう関係のあり方を重ねていました。
彼女にとって、水族館に一緒に行くことは、彼との距離を測る行為でもありました。
どうすれば相手のことがわかるのかはわからない。
けれど、隣に立って、同じものを見て、その反応を見ることならできる。
真正面から踏み込むのではなく、少し隔てられたもの越しに相手を見る。
彼女にとっては、そのくらいの距離が必要だったのだと思います。
でも、その「ガラス越しなら大丈夫」という感覚も、完全な避難場所ではありませんでした。
コロナ禍の水族館で、魚がストレスによって自分を傷つけるようになった、という話を知ったとき、彼女はそこに自分を見てしまったのだと思います。
構わないでほしい、近づかないでほしい、だから自分もなるべく近づかないようにしていたのに、魚は自分を傷つけるという行為で「おまえのせいだ」と訴えてくるように感じられた。
そう受け取ってしまったからこそ、彼女は居場所がなくなっていくように感じたのだと思います。
つまり水族館は、彼女にとって安全な場所であると同時に、安全ではいられなくなる場所でもありました。
ガラス越しなら人と関われる。そう思っていたのに、そのガラスの向こうにいるものが、自分と同じように傷ついていると知ってしまう。
見立てとして使っていたはずの水槽が、そのまま自分自身を映してしまう。
その感じが、この話ではかなり重要でした。
これは彼女が泣き出す理由でもあります。
と、同時に。
このパラドックスのような要素の同居が、自分にとって社会の一側面の縮図であるように感じられたので、物語にしたいと強く感じた発端でもあります。
ゲームで追加したシーン
あと、これはゲーム側で追加した、かなりゲームらしい要素です。
ゲームでは、彼女を深海魚コーナーへ連れて行くと、暗すぎて転びます。
そのあと、転ばないように手をつなぐことができます。
これは元の漫画にはなかった、ゲームオリジナルの場面です。
もともとエンディングは2つのつもりでした。
でもこのシーンを入れたことで、4つに増えました。
熱帯魚のペタ以外はエンディングに影響しない予定だったのですが
手をつないでおいて、エンディングで何もないのはおかしいだろう、と思ったからです。
コロナ禍という背景において、接触を避ける中、手をつなぐのだから、重大な行為です。
もはや接吻よりも叡智です。
言い過ぎました、お詫びします。
ゲームのエンディングはゲーム中の出来事が反映されるべきだと思ったので
重大で叡智な行為に基づく分岐を入れたかった、というお話です。
コメント
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。