
はじめに
考えたことをまとめました。
この記事はAI自体を肯定・否定するためのものではありません。
また、技術について正確な表現を用いているものでもありません。
どうやって作るのか
ゲームはプレイヤーが手を動かして遊ぶためのものである。プレイヤーはコントローラーやキーボードを通して操作することで、ゲームの反応を見て楽しむ。反応とはテキストや図形の意味のある変化である。ひとまず、ゲームの中心は「操作」と「ゲーム内要素」のつながりとする。文章やイラストを生成するものはすでに一般的になっている。これらのようにプレイヤーの操作とゲームの反応が対応した、一貫性のあるものを生成するとなると何が必要か。
文章は言葉と言葉のつながり、イラストは色と色のつながりである。そのようなつながりについて「意味がある」ものを出すとき、大体は莫大なデータから頻度を分析させて、要求に対して違和感が無くなるまで出力を詰める。ゲームとなると、まずプレイヤーの入力があって処理をするまでのプログラムの部分、そしてその処理で表示させるであろう具体的な部分など、多層的になる。そして、そのすべてで一貫した「意味」がなくてはならない。
描画をすべて一発で生成させるのでもない限り、ゲームの各要素の配置も考えなくてはならない。例えばビジュアルノベルであれば、下にテキスト、上に立ち絵があるというような傾向がある。配置と種類を認識させれば、既に様式が固まった部分については、すぐにそれらに従ってくれそうである。
ゲームの要素の個々の部分、すなわちキャラクターの立ち絵などについては、「このような絵」という要求から出力する部分が既にあるので、「システムがある状態のとき、プレイヤーがこのような入力をすると、イラストAがこうなる」という部分と「イラストAとはこのようなものである」という部分は分けられそうである。
学習にあたって、「こうなってほしい」というゲームの意味的な部分を重視するのであれば、それは外面的な結果、すなわちプレイヤーが見ているものをデータにすることになる。そうでなければ、ゲームのプロジェクトファイルを丸々読み込ませるのだろう。前者であれば、まず人間が全部あそんで結果を全部書き起こすでもするか、人間のように遊んでデータを収集する別のAIが必要である。後者であれば、構造はマネできるが、それが人間にとってどう意味があるものに変身するのかということを分析させるのが大変になるだろう。いずれにしても、複合的な要素のつながりを扱うための莫大なデータと、それを一挙に評価するためのマシンが要る。
どのように遊ばれるのか・人間はゲームを作り続けるのか
とりあえず生成できるものができたとして、例えばプロンプトによって操作するとした場合、数行の指示では到底まともに運用することができないのではないか。一つ考えられるのは、文章の得意な人が、一通りのシナリオと演出を書き起こして、その通りに作ってもらうことである。ゲームは色々な要素が絡まっているゆえ、不安定な結果を制御するのが非常に難しくなる。テストプレイと修正にもきっと手間がかかる。
まず到底楽しめるとは言えない代物が氾濫するのであろう。クリックすると文章のようなものが切り替わるが意味は分からないとか、アクションゲームのような見た目をしているが、操作方法が支離滅裂であるとか。相当洗練されるまで「これはAIが作ったゲームだ」と一目で判別できるはずである。まずはそれを怖いもの見たさで確かめてみたい人々が遊ぶのではないだろうか。
ある程度まで発達すると、他の生成AIと同じように、とりあえずのメインターゲットは様式美を楽しみたい人や、そこまでのクオリティを求めない人になるのだと思われる。実際に、同じような展開のものを大量に遊びたい人はいるはずなので、そういう場合には生成AIは活躍できるだろう。また、ある作風で途中まで自分で作って、最終的に想定している規模があまりにも大きすぎるので代わりにやってもらうという場合も期待できる。
とはいえ、人間が作るのを全くやめてしまうという道理はないだろう。感性や倫理の面でいえば、人間が自分や社会について考えたこと、発表したいことを人間が自分の手で形作ることそれ自体に意義があるとされるべきである。たとえ創作の手段がほぼ全部AIになり、一生かけても退屈しない分量のコンテンツがAIによって作り出されたとしても、今度はそれを俯瞰的に見る人が必ず出現する。生成AIの最も広い限界は、人類が今まで生み出したあらゆる概念・定義のあらゆる変形と組み合わせである。しかもそこに学習による偏りまである。人間はその外側があることを想定できる以上、人間製のものの需要が無くなるとは思えない。
おわりに
AIという概念に対する反感は根強いものがある。画像が勝手に学習に使われることに対する反抗心も、メカニズムや法律の問題ではなく、「画像が使われる」ことそのものから来ている。この感覚は画像生成AIそのものと結びつき、今度は広くAIそのもののイメージにまで侵入している。創作の先端に「個人」を感じられれば、そこまで嫌悪感は生まれない。「私がAIのシステムから何から全部設計して作品を作りました」であればセーフだろう。では、「AIに対戦ゲームをプレイさせるので、どれが勝つのか賭ける」これはどうだろうか。「AIは複雑なシェーダーのようなものだ」と感じているうちは安心感を得られる一方、その領域を脱する場面がある。個人がデータを振り回して作品を作り、それが人間のものかどうかという議論自体、手に余る感情がある。
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